高齢者人口は2040年前後にピークを迎えると予測され、日本の医療・介護の需要は年々増加しています。また、医療人材の不足、医療費の高騰、そして地域間の医療格差といった課題も深刻化しており、将来的には国民皆保険制度の持続すら危ぶまれる状況と言われています。
こうした背景の中、医療の質と効率を両立させる鍵となるスマートヘルス(ナショナルセンター 医療研究連携推進本部 ウェブサイトへ移動)が注目されています。
広範な社会変革の潮流の中で、フレイル予防、ウェルネス・ウェルビーイング、SaMD/Non-SaMDなど、スマートヘルスがどのような未来を切り拓くのか。
コンサルティングファームで長年にわたり都市や住民の課題解決を主導し、現在は大阪公立大学の研究推進機構特任教授 兼 経営戦略プロデューサーとして、その知見をスマートヘルスの社会実装へと繋げている黒田雅美氏に、スマートヘルスが切り拓く医療の未来についてお話を伺いました。
ヘルスケア分野のマーケット動向と社会実装
日本の急速な高齢化と、それに伴う医療・介護費の増大は、もはや待ったなしの社会課題です。この構造的な課題に立ち向かうため、今、ヘルスケアの世界ではフレイル予防やウェルビーイングのためにNon-SaMD(非医療機器プログラム)などのデジタル技術を活用した取り組みが急速に進んでいると黒田氏は語ります。
従来のヘルスケアマーケットは、「病気になってから治す」「要介護になってからケアする」という事後対応型のモデルが主流でした。しかし、このモデルは社会保障制度への負担を増大させ続けます。
この従来型マーケットを「持続可能性の観点から課題が指摘されている旧来型モデル」とし、これからの社会が目指すべきは「いかに病気にならないか、介護状態にならないか」を追求する予防的アプローチのマーケット(未病対策・健康増進や予防・健康づくりなどのマーケット)です。このマーケットこそが、社会保障制度のコストを削減し、個人のQOLを高め、持続可能性の観点でもこれからの社会に求められるマーケットなのです。
高齢者の予防における重要な三要素として「栄養」「運動」「社会参加」があります。これらは、新たな予防的アプローチのマーケットを支える三つの柱であり、それぞれが食品、フィットネス、エンターテイメントといった非ヘルスケア事業者にとって、巨大なマーケットになる可能性を秘めています。
この予防的アプローチのマーケットにおいて、特に「社会実装に近い」あるいは「産官学との連携ポテンシャルが高い」と注目する技術領域は二つです。
PHR(パーソナルヘルスレコード)(厚生労働省のホームページへ移動)の活用
ウェアラブル端末などから得られる個人の日常的な活動データを取得・分析し、具体的な「行動変容」を促すビジネスモデルが中核となる。単にデータを可視化するだけでなく、一般的な栄養バランスの考え方に基づく食事内容や運動方法などの生活習慣改善のアドバイスといった、パーソナライズされた提案を通じて、人々の生活をより健康的な方向へと導くサービスが求められている。
高齢者の転倒リスク低減
高齢者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を著しく低下させる最大の要因の一つが「転倒」であり、この転倒リスクの低減は、社会的意義が大きく需要が高まる領域となる。骨や筋肉の維持をサポートする機能性食品、効果的な運動プログラム、さらには歩行を補助するライトモビリティや搬送ロボットなど、多角的なアプローチによって高齢者の自立した生活を支える技術やサービスへの期待は大きい。
民間企業が自社のサービスを通じて、消費者の健康的な生活習慣を後押しする「仕掛けづくり」を行うことで、健康維持・増進の取り組みが社会に深く根付いていくと考えています。(黒田氏)
フレイル予防におけるスマートヘルス活用法
成功の鍵は「行動変容」を促すエコシステム
フレイル(虚弱)予防は、単に高齢者の健康を維持するという次元を超え、将来の介護負担を軽減し、自立した生活を長く享受するための社会全体にとって重要なテーマです。この複雑な課題に対し、スマートヘルスが極めて強力な解決策となり得ます。
フレイル予防におけるスマートヘルスの枠組みは、以下の三つのステップで構成されます。このプロセス全体を一体的に提供することが、成功の鍵といえます。
- 1. データの取得
- 最初のステップは、個人の状態を客観的に把握すること。ウェアラブルデバイスやスマートフォンアプリを通じて、歩数、睡眠時間、活動量といった日々の生活データを継続的に収集する。
- 2. データの分析
- 次に、収集したデータをAIなどが分析し、生活データの傾向から、フレイルのリスクを高める生活習慣のクセや課題を可視化(見える化)する。さらに、個人の状態や生活習慣に合わせて、最も効果的で、かつ実行可能な生活習慣改善のための提案(食事、運動、社会参加の推奨など)を特定する。
- 3. 行動変容の促進
- 最も重要かつ困難なのがこのステップとなる。データの取得と分析は、それ自体では何の意味も持たず、データと分析がいかに優れていても、「人間のモチベーション」という課題を解決しなければ価値は生まれない。
分析結果に基づいて「1日1km歩きましょう」と推奨するだけでは、なかなか行動変容は生まれません。ウォーキングコースを巡るデジタルスタンプラリーや、達成度に応じたインセンティブ設計など、ユーザーが楽しみながら継続できる「仕掛けづくり」を通じて、受け身の健康管理を能動的な活動へと転換させることが不可欠となります。
民間企業参入のポイント
このスマートヘルスのマーケットに民間企業が参入する際の成功要因について、黒田氏は二つの重要な視点があると言います。
第一に「自社の強みを認識すること」。IT企業であればデータ分析、食品メーカーであれば栄養、フィットネスクラブであれば運動プログラムの提案・アドバイスといった、他社に真似できない核となる能力を明確にすることが出発点となります。
第二に、より重要なのがバリューチェーン全体を見渡し、自社の強みを活かしつつ、他社のサービスと連携することでシームレスな体験を提供するエコシステムの構築。これは、持続可能な事業モデルを確立するための絶対条件です。
ウェルビーイングとDXの融合
個人の「なりたい自分」を実現する伴走型アプローチ
ヘルスケアの文脈で語られる「ウェルビーイング」は、「自分らしく生き生きと生活する」という、より主体的な生のあり方を示す概念です。
医師主導の「受動的」なDXに対し、ウェルビーイングのDXは、生活者自身が「能動的」に自らのQOLを高めるためのアプローチでなければなりません。その鍵となるのが「伴走型DX」という考え方です。
黒田氏の分析によれば、利用者に寄り添い、真に価値ある「伴走型DX」を実現するには、特に以下の三つの構成要素が不可欠になると言います。
- 1. 使いやすさ(ユーザーインターフェース)
- テクノロジーは、誰もが直感的に、ストレスなく使えるものでなければならない。特にデジタルに不慣れな層も含め、あらゆる人々がその恩恵を受けられるシンプルで分かりやすい設計が求められる。
- 2. 継続性(インセンティブ設計)
- 一度きりの利用で終わらせないための工夫が極めて重要となる。活動に応じたポイント付与、仲間と競い合うゲーミフィケーションなど、楽しみながら使い続けられるインセンティブが行動の継続を後押しする。
- 3. 成果の可視化(実感)
- 自らの努力がどのような成果に繋がっているのかを実感できる仕組みは、モチベーション維持の鍵となる。例えば、AIが数年後の健康な自分の姿をシミュレーションして見せてくれたり、実年齢と健康年齢の差が改善していく様子を可視化したりすることで、ユーザーは「なりたい自分」に近づいている実感を得ることができる。
このウェルビーイングマーケットにおいて、黒田氏は特に二つの領域に大きなビジネスチャンスが広がっていると指摘しています。
- 1. 高齢者マーケット
- フレイル予防と直結する、アクティブシニアのQOL向上サービスのニーズは巨大である。健康寿命を延ばし、社会との繋がりを維持するための多様なデジタルサービスは、今後ますます重要性を増す。
- 2. 子育て世代マーケット
- 画一的な提案・アドバイスではなく、子供一人ひとりの身体的特性に合わせたデータに基づくパーソナライズされた運動・スポーツプログラムが注目されている。これにより、子供の潜在能力を最大限に引き出し、健やかな身体的発達をサポートする新たなマーケットが生まれる。
事業化の課題と戦略的解決策
ウェルビーイング関連事業が共通して直面する課題は、一定数の利用者を確保しなければ収益化が難しいという点です。
その解決策として、黒田氏は自治体が主導する「スマートシティ構想の共通プラットフォーム」を活用することを提案しています。
広域の住民が利用する共通基盤に参加することで、事業者はユーザー基盤の構築コストから解放されます。さらに、そこで集積されたデータを匿名化・仮名化した上で二次利用し、新サービス開発や研究に活用することでマネタイズの多角化を図ります。つまり、各社の競争から、エコシステム全体で価値を共創するステージへの移行を目指すべきだと考えます。(黒田氏)
SaMD/Non-SaMD:
アプリやウェアラブルデバイスが「サプリ」になる時代
SaMD(Software as a Medical Device:プログラム医療機器)は、ソフトウェアそのものが診断や治療を行う技術分野です。黒田氏はこれが今後のヘルスケア分野のDXを牽引する重要な要素になると見ています。
SaMDとNon-SaMDの違いは、「薬」と「サプリメント」のような関係です。
| SaMD | Non-SaMD | |
|---|---|---|
| 目的 | 疾病の診断、治療 | 健康増進 |
| 規制 | 薬機法等の規制対象 | 医療行為には該当しない |
| 提供 | 医師による「処方」が必要 | 処方箋は不要 |
つまり、SaMDは医師の診断に基づき処方され、治療効果が公的に認められた医療機器であるのに対し、Non-SaMDは個人の健康増進を目的として自由に利用できるヘルスケアアプリと位置づけられます。
SaMDマーケットへ民間企業が参入するには、いくつかの大きなハードルが存在します。「多額の開発投資」「臨床試験や薬事承認といった厳しい規制」「事業化までに時間を要し、長期化する投資回収期間」といった点です。
これらの課題を踏まえ、多くのスタートアップが採用しているのが、「まずNon-SaMDとしてマーケットに参入し、収益基盤と実績を確立した上で、将来的にSaMDとしての承認を目指す」という二段階アプローチです。
ただし、Non-SaMDには広告規制があり、なかなか宣伝ができないという課題もあります。そのため、Non-SaMDマーケットでも単独での事業拡大は困難です。
それらの課題を乗り越えるためにも、ウェルビーイングの項で述べたようにプラットフォーム連携戦略が重要なのです。
未来の健康社会への展望と各セクターへの期待
産官学連携で築くデータ活用のエコシステム
ヘルスケア分野のDXを社会全体で成功させるには、企業ごとの技術開発やサービス提供に留まらず、社会全体で「データ活用基盤を構築」することです。未来の健康社会の実現は、産官学の連携なくしては成し得ないと考えています。
未来に向けた最大の課題は、個人の健康・医療データが標準化も道半ばであり、各所に「分散」し、相互に「連携」されていない現状です。学校や職場での健康診断結果、そして各医療機関での診療データに至るまで、生涯にわたる貴重なデータが一元化されていません。
患者・生活者起点でこれらのデータを安全に統合し、本人の同意のもとで有効活用できる世界の実現が急務なのです。
黒田氏は、未来の健康社会を実現するために、大学、民間企業、自治体がそれぞれ果たすべき役割を次のように提言しました。
- 1. 大学に期待される役割
- 高度な研究成果を創出し、新たなユースケースの源泉となること。また、その知見を社会に還元するため、産官学連携を積極的に主導し、研究成果の社会実装を加速させるハブとしての役割を担うこと。
- 2. 民間企業に期待される役割
- 住民にとって魅力的で、使い続けたいと思えるユースケースを開発・提供すること。そして、自社単独での展開に固執せず、他セクターと積極的に連携し、データ活用のエコシステムを共に構築するという視点を持つこと。
- 3. 自治体に期待される役割
- 個別の市町村の枠を超えた広域でのデータ活用プラットフォームを構築し、多くの住民と事業者が参加できる環境を整備すること。また、スーパーシティ構想などを活用した規制緩和を通じて、民間企業が新たな挑戦をしやすい事業環境を創出する役割も大きい。
医療機関、自治体、そして民間企業の皆様が、この構造変化を深く認識し、それぞれの役割を果たすこと。それこそが、すべての人が自分らしく、健康で生き生きと暮らせる社会を実現する唯一の道なのです。(黒田氏)
(取材・文:町田 知陽(株式会社PLAN-Bマーケティングパートナーズ)/取材協力:黒田 雅美 氏(大阪公立大学特任教授))
スマートヘルスマーケットへの参入を目指す企業の皆さまへ‐三菱HCキャピタルグループのサポート
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